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梅辰の歴史


元祖梅にんにく物語
1. 岩倉龍夫が梅辰を創業するまで
梅辰株式会社は昭和52年(1977年)4月1日に創業しました。創業者の故 岩倉龍夫は当時45歳。起業までにはさまざまな紆余曲折を経験しました。

昭和6年、浜松で生まれた龍夫は、戦時中、生家を浜松空襲で焼失し両親と兄・姉は田舎の親戚宅に疎開。龍夫は三重県の航空隊に入隊し“人間魚雷”となる覚悟で出撃する直前、終戦を迎えました。
親戚宅にいた父や兄は病気で働けず、姉はすでに嫁ぎ、母が布団の打ち直しをしながら必死に家計を支えていました。龍夫は知人のつてを頼り、静岡市本通りの下駄屋に住み込みで奉公に出ます。根っからの働き者で行動力のある龍夫は、18歳で番頭をまかされ主人を11年間支えましたが、龍夫が26歳の時、下駄屋は廃業の憂き目に。

当時、取引先にはすべて手形払いだったため、龍夫が自ら、一軒一軒を回って頭を下げたのでした。
龍夫は次にプロパンガスの販売店に就職します。重いボンベやドラム缶をかついで富士あたりまで毎日通うなど、早朝から深夜まで働き詰めで月給は5万円程度。「所帯を持っても金がなくて生活は苦しかった。でも毎晩飲み歩いていたな」と苦笑い。プロパンガスの営業を10年勤め上げ、40歳の時横浜の商社に移り、2年間みっちり営業力を鍛えました。

ある時雑貨卸会社の元部下の男から、漬物を取り扱わないかと声をかけられます。彼は埼玉県の大手漬物製造会社・山本食品工業の漬物商品を扱っていたのです。静岡市にはわさび漬けの店が多く競合しても勝ち目はなさそうだと、最初は乗り気ではなかった龍夫ですが、実際に山本食品工業の製造工場を見学したところ、企業家魂をもつ当時の社長・山本憲雄氏とすっかり意気投合。漬物を取り扱うことになりました。
「現金商いが原則だから、手元に持ち合わせの現金がないと静岡で集金し終わった夜の7時8時に小田原まで車を走らせ仕入れ、徹夜で仕分け梱包をしたものだ。ほぼ半年、毎晩通ったよ」と当時を語ってくれました。やがて、漬物だけで勝負ができるという手ごたえを得て、昭和52年(1977年)「梅辰」を設立しました。
「梅」は最愛の母・梅子から。これに「龍夫の龍では中華料理店に間違われる。“ン”で終わるほうが、運が付くだろう」と「辰」の字をあて、シンと音読みさせたのでした。
 
2. 元祖梅にんにくが生まれた時代

従来の漬物から一歩進んだオリジナルの看板商品を作りたいと願った龍夫は、山本憲雄氏と二人三脚でさまざまな企画・開発・試作を繰り返します。山本食品工業では薬膳総菜として付加価値の高かったにんにくを漬物商品化しようと、薬膳の本場中国・台湾から塩漬け状態のむきにんにくを仕入れ、脱塩・脱臭加工する技術を独自開発していました。
龍夫は、子供のころ風邪を引いたときに母梅子が龍夫のこめかみに梅干を貼り、にんにくを焼いて食べさせてくれたことを思い出します。梅干ならば、当時かつお節を和えたカツオ味梅が人気。2人はこれに、にんにくを合わせようと思い立ちます。かつお節は焼津産、梅肉は和歌山県産南高梅にこだわり、香味の良さを追求しました。
日本人の生活にゆとりが生まれ、長寿世界一となって健康志向がますます高まる時代。2人は「味がいいから毎日食べれる」「毎日食べれば健康になる」というにんにくの新たな付加価値を前面に押し出し、今までにない高級漬物を目指したのです。
 
3. 無臭にんにくを目指して
主役のにんにくは当初、中国の主要産地である大連産で試作してみたものの、臭いが強すぎるため、山本憲雄氏は中国各地を探し回り、品質の良さで定評のある河北省産の食べやすい小粒にんにくを選択。生産者を厳選し晩秋に植え付け、越冬し、翌6月ごろに収穫した果肉のしまりのよい上級品を、山本氏自ら技術指導した現地指定工業で湯通しし、飽和塩水で約一週間下漬けします。下漬けされたにんにくは、皮がむきやすくなったところで1つ1つ手でむき、再度塩漬けします。塩分濃度20%で約2か月、塩漬けしたものを山本食品工業埼玉工場に運び、脱塩・熱処理加工します。この過程でほぼ無味無臭となり、コリッとした歯ごたえだけが残ります。
丁寧に下ごしらえした小粒にんにくに、焼津産かつお節と和歌山県産南高梅の梅肉という特選素材で味付けし、完成。龍夫は「元祖梅にんにく」に梅辰の社運を賭けました。
4. 梅にんにくが売れるまで

にんにくを使ったさまざまな料理や健康食品が普及し、にんにくの効能に対する理解も進んだ現代と違い、昭和50年代当時、にんにく臭のマイナスイメージはまだまだ根強く、梅にんにくが認知されるまでには数年の時間を要しました。
梅辰では雑貨卸会社時代からつながりのある全国の取引先に代理店契約をオファーしたものの、反応は鈍いものでした。そこでターゲットを広げて「漬物は現金商売。資本力がなくても参入可能」と呼びかけたところ、個人行商人が次々と名乗りを上げました。
その中の1人、四国で個人代理店契約を結んだ林昭應氏が「にんにく臭いという誤認をなんとか払拭したい」と自腹で2~3粒の試食パックを作ったと聞き、梅辰でも少量試食品パックを製作することに。取引先のしらす加工業者に依頼し、同社のパート職員が手作業の内職で1つ1つ丁寧にパッキングした試食品を主要取引先に提供しました。
同じころ、林氏から紹介を受けたという高知在住の行商人が車を飛ばしてやってきました。
聞けば財布にはガソリン代と高速代しか入っていないが、梅にんにくで再起を賭けたいと必死の形相。龍夫は自宅に1泊させ「代金は商品が売れた後でいいから」と荷を与えたところ、彼はその場で感涙にむせび崩れたのでした。
「梅にんにくに惚れ込んで人生を賭ける覚悟で売ってくれた個人代理店や、手間のかかる小分け作業を引き受けてくれた内職のパートさんたちの存在なくして、今の梅辰はない」龍夫は創生期に支えてくれた人々を思い起こし目頭を熱くします。
 
5. ロングセラーの誕生
やがて、試食品を提供した大手取引先の1つ・ヨシケイから大量注文が舞い込み、ヨシケイのネットワークを通じて梅にんにくの評判が拡散。それまで取引のなかった企業からも次々とオファーが寄せられ、日本郵便ゆうパックのギフト推奨品にも選定されました。
滋賀県の大手薬剤メーカー、異業種ながら梅にんにくの商品性に惚れ込み、新たに食品部門を設けるから卸売り取引を依頼したいと、静岡へ再三通ってきました。契約を結んでからは年、数億の売り上げ実績を上げ「さすがに近江商人の底力」と龍夫も舌を巻いたほど。「元祖梅にんにく」のブランドイメージを定着させヤクルトの販売網も広げました。

丁寧な接客で顧客の信頼の厚いヤクルトレディーを通じて、梅にんにくの付加価値をアピールしてもらえたら効果大と直感し、東京のヤクルトにチラシと試食用パックを提供し、採用されることに。全国に120社の販売会社をもつヤクルトのセールス力は絶大で「元祖梅にんにく」を一躍全国ブランドに押し上げました。
山本食品工業の現会長・山本正幸氏は「当社では毎年数知れない商品を新規開発するが、多くは3~4年の寿命。梅にんにくだけが息切れず、ロングセラーになった画期的な商品」と振り返ります。
その後、競合会社からも続々と類似商品が発売され、漬物市場に梅にんにくというカテゴリーを築き上げたのです。